ドイツ映画「The Last Station(「終着駅 トルストイ最後の旅」)」、Michael Hoffman、2009、ドイツ、ロシア、イギリス

トルストイは、「戦争と平和」やら「アンナ・カレーニナ」などを著しながら、人道主義に傾いていき、それを慕うひとが絶えず、トルストイ主義という運動体にいたる。
 トルストイの掲げる理想とはべつに運動体としての利害がそこにかかわってくると、そこにもドラマが生まれることになり、それがこの作品で描かれる。
 運動体の利害といった場合、トルストイの伴侶のエゴイズムもそこで浮き彫りにされてきて、形骸化しつつある愛の姿、それはもうひとつべつの愛の姿でより相対化される。

 わたしが思っている以上にトルストイ主義というのは、現実に力を得たらしく、いうまでもなくそれはニホンでは白樺派などに流れ込んでいるわけだ。
 わたしはトルストイをやや悲壮的に捉えていたかもしれない。
 日々の暮らしにおいても、すでに報道陣に巻き込まれ、いなかの駅の最期では孤独な死を思い描いていたが、じつは当時のひとびとのおおきな関心をひきおこし、話題をよんでいたらしい。
 あくまでも著名人であった。

 トルストイはその文筆暮らしのなかで自分の立場をより先鋭化させ、農奴社会の改革をめざし、ときには以前の作品を否定さえした。
 偉大な理想主義であった。
 では、それにもかかわらずトルストイの矛盾とは、ジレンマとはなんだったのか。
 より短絡的に言うならば、封建的農村社会を乗り越え、来るべきブルジョア社会のモラルさえをどう乗り越えようと試みていたのか、そこにわたしの関心は集中しそうだ。

 まずトルストイの理想と、それを運動体として組織することは行き違いをうむことがある。
 家庭というシステムに安住するかぎり、自由に生きることはできない(!)。
 ほんとうの愛、あらゆるものへの愛に生きようと望むならば、そうだ、家庭なるものを捨てなくてはならない。
 もし健康がゆるし、トルストイが旅立つとしたら、そこからどんな物語が始まっていただろうか。
 あたらしい繋がりに意味を見出したいならば、古い繋がりにひきずられていてはならない。
 もし聖人になるならば、どんな犠牲をはらわなくてはならないのか。
 われら凡人には想いがおよばないことが、いくらでもある。
 安住をえらぶか、漂泊をえらぶか(または二者択一でさえもないのだろうか)。

(2010/06/27)