米国映画「Being John Malkovich(「マルコヴィッチの穴」)」(1999)
・「Being John Malkovich(「マルコヴィッチの穴」)」、Spike Jonze、米国、1999年
二三年前に映画館で観てスゴイ作品だと思った。無意識とアイデンティティとの関わりあいというか。スゴイ、スゴイという気持ちは変わってないけど、やはり時間がたつと、いったいどういうふうにすごかったのかを詳しく語るのがむずかしくなる、仕方がないことだけど。
すると夕べ、TVにてこの作品が上映されたので飛びついた。
まずこういう分かりにくい、実験的テーマというのは一般的に米国映画では敬遠されるのがふつうだ。それをやってのけてしまった。それでもそこには妥協の産物があったようで、儲け話やらマルコヴィッチの卓越した、人をくった演技やらでエンターテーナー性を得ている。もちろんセックスがらみもあって、ヒットを約束された米国映画のノルマは守っているわけで。
他人の意識に潜り込むということ。自分は自分でそれをまとったまま他人に成りすます(とくに相手が有名人)、正しくは覗き見をするということはただタブーであるわけではなく悦楽をも招く。しかもまったくの成りすまし、覗き見ではなく、自分自身のアイデンティティをも匂わせながら。。。
これ、必ず15分でオチがつくような仕掛けになっているが、その限度がもしなかったとしたら、すなわち果てがないということで自身のアイデンティティの全くのクライシスに陥る。存在が意識に規定されなくなる?
小難しいことは抜き。それから先はどうなるのか。自身を越境してしまう。
話は変わって。。。世はマルコヴィッチで充ちてしまう。かくして一皮めくれば自己意識の地獄に陥る。いまさらなにも目新しいことなんてない。すべてが白日にさらされれば、それもセカイが変わってしまうことの起爆剤になるはず。
とにかく自身がほかの誰かになれてしまうのだったら、それから先は何が起こるのか。。。こりゃ、ホームワークだな。
(2005/10/17)