米国映画「The Tree of Life(ツリー・オブ・ライフ)」、Terrence Malick、2011、米国

映画館にて観ているあいだ、ずいぶん壮大で優美な作品だと感銘を受けた。
ところが数日してみると、それほど鮮明な印象に恵まれていないことに気がつき、自分に判然としなかった。
米国の厳しい躾けの家庭が描かれ、しかし事故によって家庭の幸せが崩される。
ヨブ記が引用され、なぜわたしたちは罰を受けるのか、そんなことから始まって生の、生きることの意味が問われていく。
それは宇宙の、地球の歴史にまでおよび、宇宙のなかでわたしたちのいることの意味はなんだろうか、という思索にまでたどりつく。
それを助けるかのように古今の名曲が流れ、見ているものも引きずり込まれていく。
自分がいること、自分が生きていることの意味は、なんだろうか。
この作品を素直に受け止められないひとたちは、そこに禍々しさを感じてしまう。
 それはそうだろう、米国人以外の世界のひとたちはそれについて考えめぐらしながら生きてきたのだ(米国人と戦後のニホン人以外?)。
これはさながら断章形式の小説であり、高度のイマジネーションに恵まれていないかぎり、そのまま受け止めることはできない。
インドの哲人とかには可能であろうが。

ホルナダ紙にて、キューブリックの「2001年宇宙の旅」と比較している批評家がいた。
意図は似通っているが、この両者はどこが違うかを論じていた。