メキシコ映画「Año Bisiesto(うるう年)」、Michael Rowe, 2010、メキシコ



メキシコ映画のタブーを打ち破ったものとして高く評価されている。
 内容が破格なわりに、語りのトーン、シーンの撮り方が冗長で、ひと昔まえの(退屈な)「国内映画」をわたしにはまず思い起こさせた。

 地方から出てきたラウラとよばれる田舎の少女、色黒でいかにも原住民の風貌であるがゆえに都会ではふつうの階層(カスタ)の男からは相手にされず、ただ欲望の対象としてのみ。
 しかしフリーランスのような仕事をつづけながら、その場かぎりの行きずりの男に身をまかせる。
 たまたま特定の男との関係がつづくようになったが、そこで展開されたのはサド・マゾ関係であった。
 マゾ性をしめすラウラの願望はどこにあるのか。
 エーリッヒ・フロムの著作が暗示される。
 自由からの逃走をめざしているのか。

 ラウラは死への願望、タナトス性にまで至りたいのだが、そこには亡くなった父親(と)の過去も埋もれているらしい。

 メキシコの社会構成の複雑さ、および抑圧されている欲望の姿をこれほど明らかにした作品はいままでになかったかもしれない。

 本作品はカンヌにて新人監督賞受賞。
 監督はメキシコに帰化したオーストラリア人。

 フランスではずいぶん好意的に受け止められたらしいが、当のメキシコではコンプレックスがつよすぎて正視できないのではないだろうか。


(2010/10/10)


土曜に観たメキシコ映画のことを、毎日、あれこれ考えている。
 そのテーマのひとつは、エスニシティとセックスの問題で、これはいわばメキシコ社会ではタブーに属しているはず。
 いなかから都会に出てきた、原住民系のひとはどのようなやり方で都会のひとと親密になるのか。

 メキシコ社会の場合は、少数の白人がいて、大部分は混血(メスティーソ)といわれ、その一方に原住民(インディヘナ)が存在する。
 しかしそれは人種的に厳密ではなく、原住民でも都会の暮らしに浸ってしまえば混血とみなされることがすくなくない。

 メキシコでも潜在心理的には人種差別が皆無というわけではなく、ごく単純に肌の色で判断されることがある。
 おなじ兄弟でも肌の色がちがうことが少なくないので、他のひとからの当たりもかわってくるらしい。

 そこでこの映画では、原住民系の容貌を多く持つおんなのひとが、おとこのひとと関わるとき、なにが起こるかをチェックする。
 おんなのひとは容貌こそ原住民系であるが、それなりに知的トレーニングは積んであり、インテリの部類にも属するかもしれない。
 しかしおとこを求めてバーなどに出入りする。
 自分のセクシーさを掲げるべく努力もする。
 (メスティーソの)おとこは、欲望のはけ口としてこのおんなを利用する。
 しかしその場かぎりの関係でしかなく、長続きしない。
 それはこのおんなにコンプレックスを植え込んでいってしまう。

 こんなとき、ほかのおんなたちはどうしているのだろうか、とこのところ考えていたのである。

 まずは差異の強調。
 原住民系であっても、エキゾチック性、エキセントリック性を強調し、ただただ奇抜であることで、原住民系とは異なることを目指す、そこにこそ個性があるとみなされもするのだろう。
 それは先進国であったらパンクにもつながるはず。
 要するに主張性を意識。

 またはわたしの住んでいるネサワルコヨトル市はそんな原住民系が少なくなく、ここの住民にとってはごく当たり前のことで、お互い同士がペアをこしらえればいいだけの話。

(ニホンで、エスニシティとセックスというテーマになると、黒人対ニホン人というものばかりが前面に出てくるような感じがする)


(2010/10/14)