米国映画"ハートロッカー"、Kathryn Bigelow、2009


米国がいったいイラクでなにをしていたか、そろそろ映画界でも出てきてよさそうなころである。

しかし米軍爆弾処理班をとおしてみたイラクは、多方の米軍がやはり感じているように、危険極まりないところでしかない。

しかもそこになぜ送られなくてはならなかったか、その問いはつねに出発点になるはず。

ベトナムでとおなじ相手にむかっておなじ米国人が戦う、戦いの理由もあまりわからずに。

もちろん米国の側には大義名分がありはしたものの、ブッシュのしたでのフセインの陰謀は事実無根と解明される。

しかし米国はなおも干渉、侵略をつづけたわけで、それはだれでも知っている。

米軍兵士が、敵に取り巻かれているような具合で必死に任務を遂行している一方で、まわりのイラク人にとってはひたすら日常の時間が流れていき、そのコントラストのなかで米軍兵士は滑稽なほど。

しかし米軍兵士にとっては、確実に、仲間たちが倒れていく。

日常性のなかでわずかにイラク人とつなぐとめたような絆も無残に崩れていく、敵と味方のあいだには友愛も理解も介入する余地はない。

そう、ぎりぎりにまで突詰められた毎日で、まともなひとならば精神に変調をきたすにちがいない。

疑いさえもってはいけない、"敵地"にとどまるあいだは。

ほろ苦さといったものではない、絶対的な悪がそこで演じられるとあえて言い放ってしまっていいと思う。

しかし繰り返しになるが、この作品はあくまでも出発点である、イラク人側が米軍を、あるいは西洋というものをどう思い描き、かつ憎み、そしてもしかしたら憧れたところは、これから語られるところである。

いくらでも、どこからでも論じられる可能性をかかえた作品。

(2010/02/14)