「おくりびと(Violines en el cielo)」滝田洋二郎、日本、2008
ヤラレタ、とひと言だけでやめておこうと思った。
見終わってからメトロの駅までため息とも深呼吸ともつかぬ息遣いとともに歩く。
そして見終わってから半日たち、これはことばにはできない、などと怠惰の自己肯定をしてはいけないという気になる。
このあいだ、サトシさんに意味深な、短い講釈も聞いたばかりである。
圧倒的である、とくに話の盛り上げ方が。
ニホン人の死生観がよく描かれている、もっともニホン万人向きのものではないが。
お葬式ものちになると、専門の業者もでき、上野千鶴子さんによるとホテルでのお葬式まで現れているという。
しかし亡きひとは、ほんとは自分が耕し、そこで摘み取られる作物で暮らしていた畑(の周囲)に葬られるのが筋であるはず。
お葬式もお坊さんの仲介は最小限にして、親族中心で営まれるべきものである。
お葬式がいかなる意味でも専門化していいとは思わない、いまは楽なほうがいいというご時勢ではあるが。
死に向かうことで、ひとは変る。
メメント・モリである。
しかしある年の芥川賞の講評で開高健が、ひとの死を扱ったものばかりの作品が選ばれていることにたいして不満を表明、ひとは死を通してしか、ふかいことを考えられないのか。
もっともな話である。
要は、いかに死ぬか、ではなくて、いかに看取ってもらい、成仏させてもらうかにあるのかもしれない。
ビバ!野垂れ死に!!
(なおスペイン語タイトルは、「天上のバイオリンたち」という臭いものになっている)
(この監督さん、ポルノ映画を撮りながらのいわば下積みが長かったんですねえ。たいしたものです、志を失わないことは)
(2009/11/29)
ある意味では、映画「おくりびと」よりも黒澤の「生きる」のほうが、死を通してはじめて生の意味がわかるということでは、説得的であるかもしれない、説得的というよりも直観的だろうか。
生きることがあまりにも、あやうい時代において、生きるのをやめてからのことなんて、そんな悠長なことを考えていられないというひとが多いのではないだろうか。
だからひとのメイワクなど考えずに、勝手にくたばってしまうひとたちもいる。。。(ああ、乱暴な言葉遣い)
つまり、なぜ死のことを考えられないか、それは生のことを考えていないからにつきる。
リノ・ベンチュラあたりの探偵映画かなにかだったか、ローマの地下にはカタコンベがいまも多く残っているらしい。
つまり骸骨を積み上げた地下道である。
そのあたりを徘徊したのちに、ローマの地上に戻る。
すると生きとし生けるものが、どんなにいとおしく思えるものなのか。
しかしそんな思いを感じることもなく消え去っていくひとたちのどれほど多くいることか。
ああ、生きることはあまりにむなしく、だからこそ日々のごくつまらないひとつひとつの自分の動きを、いつくしんでいかなければならない。
玉ねぎをみじん切りに刻んでいくことに、どれだけの世界を覗き見ることができるだろうか。
そこには、もはや論理といったものはないかもしれない。
それは、意味との邂逅と、無の意識、という相反する気持ちの相互往還でもある。
でもそんなこと、こんな忙しい毎日にゆっくり考えられる余裕があるだろうか。
だからたまに「奇妙な」映画とかを見せられると、ドキッとしてしまう。
死を隠すことなく、それと向き合うことは、いまのニホンでどこまで可能なのだろうか。
生きることはいとしい、と言いたくてたまらない。
(2009/11/30)