英・米映画「Slumdog Millionaire(『スラムドッグ$ミリオネア』)」(2008)


・「Slumdog Millionaire(『スラムドッグ$ミリオネア』)」Danny Boyle(2008)

 広大な多様性をふくんだインドの大地。
 そしてそのひとつに、数知れない貧しい、最底辺のひとびとが存在する。

 カーストによって塗り固められているとしても、それでも社会的・経済的上昇を願うひとたちはいて、たとえばマスメディアの発達による、欧米的クイズ番組にていくばくかの富を得ようとする。

 しかしそれが度をこすと社会的禁忌にふれ、疑いの眼、想定されたからくりを暴くことをしいられることになる。
 これは、かつてラスベガスのカジノにて、自閉症により極度の記憶力を与えられたダスティ・ホフマンが「レインマン」の映画のなかでも見せたことである。

 さて主人公の青年は兄とともに幼いときから、スラムにて苦しみを上塗りするような恰好で生き抜いてきた。

 生き抜く、ということばを考えるとき、そこには子どもの健気なさなどというコンセプトはありえず、もしそこにいじらしさを読み取ろうとすれば、それは先進国のひとりよがりに過ぎなくなる。
 なぜなら生き抜く場においては、善悪の概念などまったく欠如しているからである(だからロマンがあり、惹かれるともいえるが)。

 その生き抜いてきた青年が、それこそ生き別れにちかい幼なじみの女の子を捜し出すことを至上命令として生きる。
 ここには、おそらく二律背反がひそんでいるような気もするが、ここでは問わない。

 クイズ番組でのしあがっていくこの青年、じつはただのお金ほしさではなく、この生き別れの女の子を捜し出す手段として用いていることが判明。

 結果としてはハッピーエンドにちかい。

 しかし、ちょうど家出をしたあとのノラとおなじように、先のことは見えない。
 見えないことまでこの映画監督に要求しても仕方がないが。

 フラッシュバックの多用などで、幼年期、少年期の生きる条件の酷さが映し出されていく。
 だが、なぜか欧米映画の手法的で、インド映画、あるいはインド的ネオリアリズムの徹底さとは距離があるようにおもえる。

 ハッピーエンドのあと、踊りで締めるのはインド映画的ではあったが(笑)。

 評判ほどではなく、わたしとしては物足りなさを感じた。


 追加: 近年、優秀なインド人のことがよく話題にのぼる。
 元来、インド人とは優秀な民族であるらしい。
 だから世界でインド人が活躍する場を得るのはあたりまえ、行く先々でそれなりに、だれにでもあるような問題に行き着くのもあたりまえであるが。

 ジュンパ・ラヒリの「その名にちなんで」では、米国暮らしの主人公の青年が、タージマハールを眼にして、壮大さにうたれるシーンがある。
 ただでさえ、あまりに観光的なショットであったが。
 しかし本作では、そのタージマハールでさえ、子どもが生き抜くための問答無用の場と化す。
 憐憫なることばは、どこにも見当たらない。
 

(2009/02/22)