米国映画「Revolutionary road(「レボリューショナリイ・ロード/燃え尽きるまで」)、2008

・「Revolutionary road(「レボリューショナリイ・ロード/燃え尽きるまで」)、Sam Mendes、米国、2008

 1950年代、米国は繁栄を謳歌し、郊外にかなり見映えのいい住宅をもとめ、そこから都市へ通勤するひとがふえる。
 同時に、より刺戟の多い都市ではなく郊外での単純作業に疲れる専業主婦も増加し、家庭の幸せに生きがいをもとめられないおんなのひとは、いわゆる「私さがし症候群」に陥る。

 米国の繁栄、つまり高度大衆消費社会においては、夢も希望もコモンマン(つまり社会の歯車をささえる、置き換え可能な存在)の陰で淡くかき消されていかざるをえない。
 そこにいまのニホンでも眼にすることができる専業主婦の悲喜劇がこめられている。

 ディカプリオとウィスレットの共演というのは、タイタニック以来と巷では話にのぼっているが、じつはわたしはタイタニックを見てない、キライではなく単に機会がなかったということであるが(ビデオを持っていたが浸水でおしゃか)。

 ディプリオが、米国資本主義の勝ち組としての、しかしごくあたりまえの葛藤を感じはするが、大勢を受け入れる生き方を代表する。
 一方の女優業を挫折したとかいうウィンスレット役は、自分に不満であり、ただニホンの専業主婦にありがちな自分にだけでなく、この夫婦という運命共同体に不満で、パートナーにとってもべつの道を歩んでほしいと望む。

 しかしたとえば、上野千鶴子さんがいみじくも語ったことがあるように、自分探し症候群で留学のような道をもとめても、じつは空回りして建設的、創造的結果を得られることはごくまれである。
 肯定的結果を得るひとは、ただ逃避的に海外に道を求めたのではなく、すでに確固とした道を築いていたということになる。


 一般的には、哀しいロマンスという形容がこの作品には付与されるだろうが、日々不満をかこっているひとたちにとっては、ほろ苦さがみちている。


(2009/02/08)