ドイツ映画「レボルーション6 (Was tun, wenn's brennt?)」(2001)

たとえば、フォルカー・シューレンドルフも、カタリ−ナ・ブルームの失われた名誉、ではテロリストとかかわった女性がマスコミに徹底監視されるさまを描いていた。この監督は、テロリストそのものを描いた作品も製作していて、よくもまあ、これだけ反権力の作品がこしらえられるなあ、と驚きます。

 こんどニホンでも公開される「レボルーション6」というドイツ映画を観ました。
 まだドイツ分裂の社会でアナーキーに運動をすすめる映画研究会の男女。
 でも現在はそれぞれの暮し向き、わずかなひとたちが、しがらみのように反権力への怨念を抱き続ける。
 それがひょんなことから、かつての原始的な爆弾をつたわって自分たちの身元がわれてしまうのをシンパイしたひとたちが長年の空白の後に集まり、保身的に警察権力を相手に戦う。

 この作品、きっとヒットしないだろう。
 それにもかかわらず、深い意味がこめられている。
 ご存知のように、とくに六十年代の末を頂点として、いわゆるステュ−デントパワーが盛り上がった。
 しかし、かつての闘士たちは、なんらかの意味を残しはしたものの、かつては敵視したブルジョア社会に組み込まれて、それだけでなく、身も心も捧げるに至った場合が多かった。
 闘士とは名ばかりのように、毎日の仕事や暮らしに埋没していくひとたち。

 そういうひとたちが、保身のような形にしろ、集まり、かつてのように反権力、反警察権力を標榜したらどうなるか、という理論的可能性を求めたような展開がこの作品にはある。
 敵と想定される相手が明確にされているのだから、結集度は必然的に高まるが、それでもやはり各個人はそれぞれの暮らしに浸っており、かつての理想に逆行するような仕事についているひとたちもいる、妙に分別臭くなったりして。

 目的は達成されたものの、この映画の結論はやや曖昧だ。
 ただのアジテーター的映画になってしまっても、仕方がないわけだけど。
 結論がどうであるにしろ、これだけ考えさせたということは、りっぱだと思う。


レボルーション6 (Was tun, wenn's brennt?/2001/Gregor Schnitzler)(グレゴール・シュニッツラー)


                 (2003/08/30)