El Violin, Francisco Vargas, 2006,メキシコ



街には街の暮らしがあり、山には山の暮らしがある。どちらが心地よいかいえないが、山のほうがニンゲンでいられるというのは、間違いではないだろう。
 しかし街のひとは山のひとを犠牲にして暮らす。
 じつは正解かわからない。

 もうすこし控えめな言い方をするならば、国は山の民を虐げ、軍は山の民を踏みつける。
 なぜ田舎で暮らすのが難しく、街に出てこざるをえないのか。
 それは多くを語られてきた。つまり食べていくだけの稼ぎが得られなくなるから。それはだれのせいなのか。それは多くが語られてきた。

 冒頭から山の住民が拷問にあい、または女が兵士におかされる。(実際、今年もベラクルス州の山間部にて老女が軍兵士におかされ、かなりの国内問題に発展中)
 軍はパトロールという目的で村から村をまわり、つねに疑いの眼を向ける。なぜなら山の民は怒っているから。

 貧しく、つつましく暮らす山の民も、銃を握らざるをえない状況がある。
 そのなかで惨めな老いたヴァイオリン弾きが、息子、孫とどう生きるかが描かれる。
 つまり、老若男女をとわず、けっして傍観者ではいられないような状況というものが存在すること。
 あらゆる次元で軍に、そしてその向こうの国に抗するひとたちがいること。

 メキシコにおいて軍を敵にまわすこと、あるいはそれを表現することは容易ではない。
 たとえば、トラテトルコ事件のとき、団地内で軍が何をしたかを語った、「Rojo amanecer」
(1989), あるいは軍を敵にまわしたディグナ・オチョア、そしてこのエル・ビオリン。

 かくして息子は負け、バイオリン弾き爺さんも負ける。しかし孫は戦いを引き継ぐことを引き受ける。

 メッセージに富んだ、痛切な内容、かつ映画作品としても構成が巧みに練られていることに嬉しくなる。
 カンヌにも出品され(主演の爺さんが、ある視点部門男優賞)、世界のいくつかの映画祭にも出品され、好評。はたしてニホンで公開されるものだろうか。それにニホンで公開されても、どこまでメッセージが受け止めてもらえるのだろうか。

(2007/05/06)


造反有理というか、いくら鎮圧やら工作がすすんでみても、根元がそのままであるならば、抵抗はかならずつづくはず。

 しかも軍はどこまで一枚板でありうるか。
 とくに、軍事大国とはことなって発展途上国(あるいは、独裁国において)では、軍もいわば失業救済機関のような性格を帯びるはず。
 いわゆる農家の次男三男的な出自のはず。

 すると、兵士のなかでも、あるいは民衆レベルにシンパシーを抱く連中がいてもおかしくないはず。
 国軍に属してはいても、ゲリラ・抵抗勢力に力添えする連中がいてもおかしくない。
 そしてことあらば、戦線離脱といった具合に。

 もちろん軍事的には、反軍行為ないし戦線離脱は極刑をもって処されるのが常識だし、とりわけニホンジンの常識。
 でもさきの大戦などでは、イタリア軍では大量の人員が離脱し、パルチザンに身を投げたとか。

 つまり、蜂起勢力は孤立しているのではなく、支援されてもいるのだ、希望はあるのだ、というふうにわたしは解釈したんですが。

 でも、ほかのことを考えたひとたちもいるらしく、
「よーするに、軍の兵隊さんとあのジーさんは一時的ではあれ、心が交流していたわけで、あそこで、タコスと言いながら銃を渡したのはじーさんがゲリラだと思ってはいない、ということと、途中で襲われたときに身を守る手段としてじーさんを守ってあげたかったんだろう」という説なんだそうな。。。

(2007/09/19)


軍というのは、まがりなりにも、人殺しのプロフェッショナルであるわけで、いかなる場合もまるっきりこころを許すわけではないと思います。
 軍のボスが、爺さんのヴァイオリンに興味を示すのは、人間的側面が出ていて、ほほえましくもあったでしょう。
 しかし、つねに敵を想定しなくてはなりません。
 軍は、侵入者と戦うだけでなく、「国民」のあいだの戦いに介入するわけです。
 まわりは敵だらけといってもよく、それだけに諜報活動も欠かせないし、まずはだれをも疑ってかからなくてはなりません。
 軍のボスにしても、この爺さんに全幅の信頼を寄せることはできなかったはずで、だからこそ尾行させて、念には念をいれたのでしょう。
 ここでは爺さんの油断が致命的でした。
 正規軍とゲリラとは、もちろん正規軍のほうが優勢なわけで、ゲリラ側はそれをカヴァーするなにかに支えられていなくてはなりません。
 信義だとか、具体的には細心さなんてものもいるでしょうね。

 爺さんに兵士が隠れて武器を渡すのは、もちろん爺さんに蜂起してもらおうというのではなく、ひろい意味での支援なのでしょうね。
 けっこく、孫たちの手に渡るらしいですが、「善意」の兵士は、義は民の側にあり、戦いはおわることはない、しかし、民の側に賭けたい、というシンボリックな意味がこめられているんでしょうね。
 正規軍のほうが重火器など圧倒的だから、現役のゲリラ側にとって拳銃の一丁や二丁、それほど役にはたたないかもしれないしね。

 (爺さんがパトロンに騙されたように、土地をロバ一頭を引き換えに盗られてしまう、なんてことはメキシコ革命まえはよくあったようです。
 この映画の内容は、50年代、60年代、70年代のゲリラ戦がテーマとなっているようです。
 いま現在のゲリラ戦では、サパティスタたちのように、広報戦が欠かせません。
 だから、この映画のコラボレーターのなかにメキシコ外務省が加わっているのも、妙なことではないでしょうね。
 しかしこの映画で描かれているような農村やらいなかの状況はなおもつづいているわけです。
 そしてそのような状況下の子どもたちへの支援をたとえば、初代映画「フリーダ」の主演オフェリア・メディーナはからだを張って継続しているという事実があります。


(2007/09/20)