ハリウッド映画はどこまでできるのか。。。。

 

日本にいるとあまり気がつかないのだけれど、米国人というのはイスパニック世界を嫌っている。
 とくにメキシコ人は不潔なもの、貧しい者の象徴に近い。
 メキシコ人にとっては、ブラボー川を渡って仕事にありつければ、いい金になるから、危険をおかして川を渡ったり、砂漠を越えたりする。

 「イージーライダー」の映画では、二人が南部のある民家にたどりつくと、民家の男のほうが「うちのもんはカトリックで、なんだかんだ」と胡散臭そうに話してた。
 もちろん、おんなたちはメキシコ人だった。

 「ET」では、エリオット少年のパパは、おんなといっしょにメキシコに逃げてる、という設定。

 アンブロアーズ・ビアスの最期の日々に迫った、カルロス・フエンテスの小説の映画化「老いぼれグリンゴ」では、グレゴリ−・ペックがビアスを、語り手のような、目撃者のような役を、ジェーン・フォンダが演じた。
 この映画、ハリウッド映画としては、もっともスペイン語が多いという評判をとったものだ。
 ジェーン・フォンダが、タコスを頬張るシーンが印象的だけど、原文では「ブタの睾丸のタコス」とか出てて、メキシコという国の猥雑性があからさまにされてる。

 ちょいと脱線。
 この「老いぼれグリンゴ」、ビアスメキシコ革命のパンチョ・ビジャの部隊に入り込んだという設定になっている。
 このパンチョ・ビジャの部隊、米国史上、唯一の、米国本土に攻め入った外国軍、ということになってる。
 騎馬で国境の町を襲ったのです。


ここからが本題。
 米国製「フリーダ」の映画をこのあいだ、観た。
 メキシコの画家、フリーダ・カロはメキシコ三大壁画家のひとり、ディエゴ・リベラの奥さんではあるが、生涯が傷だらけであった。
 本人自身も絵を描き、当時の傾向とはまったく異なった作風がおおいに注目された。

 フリーダ、というのは十年以上もまえにメキシコにて、有能な監督と魅力的な俳優陣で映画化されていて、それに比べるとハリウッド版はだいぶ落ちるといわれている。
 このフリーダ、いまではパーフォーマンスで有名な、森村泰昌さんもフリーダのまねをして、日本でもだいぶポピュラーな人物になったらしい。

 まあ、はっきりいうと、それほどいい映画ではなかったんだけど、ハリウッド映画が(当時の)政治をどう描いているかが、ひとつの関心を誘った。

 まず人気の出た、つまり米国でもポピュラーになりつつあったディエゴ・リベラが、ロックフェラーの依頼により、世界史的ビジョンの大壁画を描く。
 そこにレーニンの肖像が加わっていただけに、依頼主は修正をもとめ、それが受け入れられないと、壁画まで破壊するにいたる。
 米国というのが、単なるシンボル操作にたいしても、いかにナーバスになりうるか、というのが垣間見える。

 まあ、ロックフェラーとレーニンという顔合わせ、しかもそれを描いたのがメキシコ人。
 一幅の絵ですな(あん、ほんとに絵なんだってば)


もうひとつ、というか、最大のハイライトは、スターリントロツキー
 世界革命と一国社会主義政権のことだったりするのだけど、ここではあまり触れません(というか、本人が不勉強でよく知らない)。
 スターリンに敵視されたトロツキ−は、メキシコに亡命し、フリーダの親父さんの家を要塞化しつつ、住み着く。
 いまではトロツキー博物館とかになっているのだけど、その周辺のことをもう二十年まえに、たしか高畠道敏さんだったかが朝日の夕刊の文化欄に書いていたことがあった。

 ディエゴは、はじめはトロツキーを熱意をもって支援するのだが、すべてが揺れ動く時代でもあり、スターリン支持に移ったりもする。
 一方で、フリーダは、政治的支援をも越え、トロツキーにと恋愛感情さえ抱いていく。
 ここのところはじつは、侮りがたい意味が含まれている。
 ついには、トロツキーの奥さんが嫉妬して、夫婦喧嘩までおきる。
 世界のなかには、いまでもトロツキーを神さまのようだと思い込んでいるひともいるわけだから、こんなふうに戯画化されると、かなりショックには感じる。

 もちろん、映画では両者のイデオロギーの違いの説明など出ない。。。逆立ちしたって、出るわけありっこない。
 でも、シンボル的に二十世紀のイデオロギー闘争が描かれている。
 すこぶる微妙なところではあるのだけど。

 まあ、このフリーダ・カロというひと、政治的な意味にかぎらず、二十世紀の悩みと喜び、といったものがシンボル化した人物だとわたしは思うな。


(2002/12/26)