アルゼンチン・スペイン映画「Tango」(1998)
・「Tango」、Carlos Saura、アルゼンチン・スペイン(1998)
カルロス・サウラは、ゴヤの映画を描いたときは、フラメンコやら魅力的な音楽をふんだんに用いて、なんとも豊かな作品世界を示した。
しかしスペインの監督にラテンアメリカを描かせたらどうなるものか。
あまり記憶に鮮明ではないのだが、サウラの「エル・ドラド」、つまり新大陸制服の話は、もうひとつ鮮やかさに欠けていたはずだ。
ヘルツォークのアギーレ、とは比べるまでもない。
そんなサウラが、タンゴをどう描くか、フラメンコとタンゴはどうぶつかり合うか。
踊りは、生きている。
すべての文化は、様式化とその革新のコンフリクトのなかでせめぎあう要素の集合である。
様式化は、大事なものではあるが、優れたひとたちによらなければ、えてしてマンネリ化への道をたどる。
ただなぞっているだけになる。
踊りが定型化されてはいても、やはり踊るひとは生きている存在そのものであり、いま、ここで、を意識しないわけにはいかないものである。
結果として、いま、アルゼンチンで踊ることでなにが表現したいのか、自分が生きて、恋して、愛して、悩んで、といったことが描き出されていたのである。
男が女をリードしつつ踊る優雅で、ややエキセントリックな踊り。
それはそうでもあるし、観ながら、自分もやぶからにタンゴを踊りたくなったが、それだけではない。
もともとタンゴは、アルゼンチンに流れついてきた移民たちから、自然発生的、あるいはそぞれ本国での踊りをベースにされたもので、当初は、優雅さとは対照的な踊りであったはずである。
ひとりの男とふたりの女、あるいは男のグループとほかの男のグループ、あるいは女と女との踊り、などヴァリエーションは富んでいるし、その表現力にもすさまじいものがある。
はては、アルゼンチンの恐怖軍政下でさえも、タンゴの踊りで描き出してしまうところなど、うめかずにはいられない。
ストーリーもやや曖昧な恋愛悲喜劇が、メタフィクションへと伸びていき、くっきりした語りの枠組みを提供していく。
ここまでカルロス・サウラが深い理解をもつことができれば、もしかすると、お能なんてものも、描きえるかもしれない、なんてこともぼんやり思った。
(2008/06/10)