米国映画「Boxcar Bertha(「明日に処刑を」)」(1972)

・「Boxcar Bertha(「明日に処刑を」)」、Martin Scorsese 、米国(1972)

 なんの気なしにチョッポにて観た、スコセーシの作品だったからだ。
 あとで、スコセーシの長編第一作だと知って驚く。
 こんなことで無知をさらしてしまっていいのだろうか。

 ときは30代、不況のとき、ひとは殺伐とはしているが、ここでは鉄道組合(ユニオン)がおもな舞台。

 みなし子になったバーサ(ベルタ)は、組合家のビッグ・ビルやら、のちには自称弁護士のレイクたちとかかわりあいながら、貨車を乗り継ぎしながら、生き抜いていく。

 かれらは強盗まがいも余儀なくされ、トーンはボニーとクライド(俺たちに明日はない)に似通ってくる。
 しかしアナーキストであるビッグ・ベルは、組合員のプライドもあり、不本意に感じる。
 バーサのほうが、与えられた環境をそれとして受け止め、懸命に生きている感じがする。
 愛とか性についてもバーサは、一途である。

 かれらは、逮捕されて刑務所にてばらばらにされても、逃げ出し、ふたたびどこかで出会うということを繰り返す。
 そのあいだ、黒人の仲間がらみで、人種差別も語られる。

 あの30年代の不況というのは何だったのか。
 米国内の南北問題も先鋭化したし、なによりも、資本家と労働者の対立が米国史のなかでもっとも激化した時代であった。
 資本家に逆らう労働者は、すぐさまアカ扱いされ、排除・抹殺された。
 それは、米国の敵が、米国のなかに存在した時代であった。
 米国が、その後、繁栄をとげ、国民の生活の水準がおしなべて向上されたと思わされたとき、敵は外部にこしらえられた。
 米国の内部にはイノセントなひとびと、脅威は外部からという図式。
 しかし30年代は異なっていた。

 ついにかれらの命運もつきる。
 しかしその最期は、ボニーとクライドほど詩情にみちてはいない。

 しかも鉄道員のプライドを抱いたビッグ・ベルは貨車に、磔にされる。
 これはきわめて象徴的。
 労使対立の源をすべて負わされたかのような有様。
 ここに救いを見出していいものかどうか。
 バーサは動き出した貨車を追いかけはするものの。
 
 のちにスコセーシは、大資本と結びつき、パワフルな作品、陰惨でもある、ヴァイオレンスにみちた作品を撮りつづけていく。
 しかし、米国の歴史が抱えたなかでもっともコンフリクトにみちた時代をその出発点において選んだのは、忘れるべきではないだろう。

 
(2008/06/01)