米国映画「Factory girl (「ファクトリー・ガール」)」(2006)
・「Factory girl (「ファクトリー・ガール」)」、George Hickenlooper、米国(2006)
調べてみると、アンディー・ウォホールについては、すでにいくつか映画作品が制作されているらしい(もちろんウォホール自身も制作したわけであるが)。
この作品は、かつてウォホールのミューズであったイーディー・セジウィックとその時代を扱ったものと受け止めるべきもの。
ニホンでもほぼ同時に公開されているようで、そのファッション性とか女優自身についてとかが取りざたされている模様。
しかし、わたしは幼げなくウォホール自身に思いっきりリアクション。
ウォホールのアトリエは、ファクトリーと呼ばれていた。
この作品中では忠実に再現されていたと思う。
ウォホールの作品のイデーは、表層の表出のみにあり、本質になどはおかまいなしである。
それはさながら本質ご本尊信仰が意味を喪いつつある現代にとって、その表象ないし記号をいかに操作するかという点からみれば、歴史的にみて貴重だったといえる。
その意味でウォホールは、時代の寵児でありえた。
あたらしい美意識を創造したといってもいいくらいである。
深夜のひっそりとしたスーパーマーケットで黙々と改装に精をだす若い職人さん。
突然、なにか、すべてがばからしくなる。
何段も重ねてある缶詰やらなにやらを投げっこし、はてはペンキの浴びせっこまでして、現場は修羅場にいたる。
ああ、せっかくの仕事が。。。
さながら、ポップアートはこんな具合に創れるのだと言い開いたら呆れられるだろうか。
要は戯れること。
その種のアートがむなしいか、むなしくないかは二の次。
それはそれでいい。
しかし、ウォホールへのリアクションとして、わたしはほかの画家のこと、メキシコのシーリアスな画家のことをどうしても思い浮かべていなくてはならなかった。
もちろんアートには、ひとつの道しかないわけではない。
わたしだったら、ひいきのメキシコの現代画家のほうをもっと愛すると言いたくてたまらなかった。
ウォホールが出現する以前には、アクションペインティングなども米国にはあり、ポロックなどは神様的存在であった。
これも調べればすぐわかることだが、ポロックのペインティングには、シケイロスの表現主義、構成主義的なコンセプトが色濃く反映されていた。
アクションペインティングとは、社会とどんな関係にあったのか。
そこにくれば、ウォホールの手法は、そのファクトリーが前衛的だったり、コミューン的であったりしても、社会への挑発なり、あるいは反撥などには基づいていなかったということはいえると思う。
あるいは、ポップアートというのは、リアリティへのしがらみからの解放と受け止めることもできるのかもしれない(修正主義的解釈?)。
と、妙に熱くなってしまって、観おわると、意外と疲れきっている自分を見出したのであった。
(2008/05/11)