邦画「Always 三丁目の夕日」(2005)

 ・「Always 三丁目の夕日」、山崎貴、日本、2005

 レトロ雰囲気が充満し、すこしでも馴染みがあるひとは、涙なくしては見られないような、ノスタルジーとペーソスにみちている(原作からの遺産でもあるが)大ヒット作。
 しかし監督の生年をしって、ちょっと頭をかしげてしまうのは、やはりアマノジャクゆえのことか。

 下町気質というのは、人情味にあふれているが、かといって人情の安売りはしない。
 かれらにとっては、人情でさえ、じつはダブルスタンダードなのである。
 その人情の切り出し方に、伝統的なニホン人のメンタリティーでは、ほろりといってしまうわけであるが、いかにもお涙チョウダイに反撥してしまうひとたちも、少数ながらいるはずである。

 一方は挫折したブンガク青年。
 もう一方は、時代の波に乗ろうととしている自動車修理関係。
 それに集団就職組もまじる。

 ブンガク青年は、挫折とはいいながら、受け入れてくれる出版部門もあり、それこそオタク世代のはしりともいえるが、本来の理想からすれば、はるかに逸脱していると自己認識。

 それがひとりでブンガクに打ち込むはずが、子どもが転がり込むことになる。
 この子どもを軸にあたらしい認識がはじまる。
 いちおう、自分の創造的世界にどこまで反映されるのかは不明であるが。
 この役を、コミカルにもあのヨシオカ君が演じていて、その戯画性はかえそう。

 このケースをみて、ふと思いついたのは島崎藤村の例である。
 「破戒」に打ち込み、その故もあってか、子どもをつぎつぎに、栄養失調などで亡くすにいたる。

 この駄菓子屋もいとなむ三文文士の正面の自動車修理屋、この三人の家族は、当時の理想の家族であり、ニホンのお母さん役を、薬師丸ひろ子が演じる時代になったのか。

 しかし、このニホンの家族も、この息子が子どもをもつころになると、見事に荒廃しているわけで、その夕日とは、がんばることで、未来がひらけるという単純な信仰への別れでもあるのかもしれない。
 いわゆる娯楽というのが、ただひとを結びつけるためにあり、いまのように、自分だけにこもるというあり方ではなかった時代のことである。

 わたしは、いつまでもタイムカプセルに潜んでいる気持ちがぬけない。

 子役がでしゃばりすぎなかったのが、いちばんいいかもしれない。
 しばしの感傷にひたるにはいい。
 このあとにくるものに思いをいたすと、背中がむずむずしてきてしまいそう。


(2008/04/23)