中国・米国映画「Lust, Caution(ラスト・コーション)」(2007)
・「Lust, Caution(ラスト・コーション)」、アン・リー, 中国・米国、2007
上海である。
あの国際色豊か、かつニホン占領下でのレジスタンスによる、傀儡政府の高官暗殺にまつわる、二重スパイの暗躍。
しかしスリルとサスペンス一色ではない。
スパイする側もスパイされる側も、自分のアイデンティティをつねに揺るがされる。
なぜならそこに男と女がかかわってくるのだから。
俗にマタハリ的女がいかに生きていくか。
生きていくことは、揺らめきそのものであり、なにをもってしても何かを押し付けることはできない。
いや、自分のなすべきことに忠実であれ、とすべては教える。
忠実であるふりをすることは困難ではなく、あるいは生きているあいだ終始、ふりを通してしまうことも不可能ではない。
しかしそこにセックスがまじわり、生きていることの歓びをはじめて教えられたとしたら。
かりに自分がよこしまであることに目覚めてしまったら、その後、いかに生きていけばいいのだろうか。
これは、たとえば東ヨーロッパの映画ではもう何十年もまえから扱われてきたことであり、いま、ようやく中国映画でこれが扱われたことは評価していい。
政権は、というまでもなく、社会の動きは、好むと好まざるとかわっていく。
そのなかでひとはいかに生きていけばいいのか、までたどりつく問題かもしれない。
余韻というより、あとに引きずるものを山ほど残してこの作品はおわる。
男は生き延び、女は消えていく。
しかし、男もまもなく消えていくことはまちがいない。
女たちももうすこし時代がずれていなければ、歴史の犠牲になることはなかっただろうに。
この作品、セックスシーンばかりが話題になる。
しかし、それこそハリウッド性が露出しているということで、なにも驚くにはあたいしない。
あるいは、ハリウッド映画で「白人」たちがしていることをただたんにアジア人たちがしているということにすぎない。
シネマーク・レフォルマで観ようと思ったら、時間変更になっていて、しかたなく、ルミエル・テルメックスまで行く。
チョッポでは、ネルソン・マンデラのドキュメンタリーがあったらしい。あとからいってもしかたがないが、ネルソン・マンデラのほうがよかったかもしれない。
(2008/04/06)