イタリア・フランス映画「Last Tango in Paris」(1972)
・「Last Tango in Paris」、Bernardo Bertolucci、1972、イタリア・フランス
はじめて観たのは三十年以前になると思う。
文芸坐であったはずで、鳴り物入りだったのに、なぜかそれほどはっきりした印象がのこっていない。
まだ子どもだったのだから仕方がない。
でも、検閲済みのものだったろうから、合点がいかなくてもムリはないかもしれない。
そして、今。
冒頭にフランシス・ベーコンの作品が出てくるのに度肝をぬかれた。
なんと思想色のつよい作品だろうか。
いや、ヨーロッパ文明のひとつの結論としての世界がここにひろがっているのだ。
ふつつか者のわたしは、音楽担当者のガトー・バルビエリのことは知ってはいたが、この映画のあのテーマ音楽作曲者であるというのも存じていなかった。
いったいこの作品からなにを読み取らなければならないかを考えながら、始終、緊張しきっていた。
そう、このマーロン・ブロンドとマリア・シュナイダーの関係こそが、ひとつのヨーロッパの到着点だと思えてならないから。
愛欲のシーンをのぞけば、あとはかなりぎこちないシーンもあるが、それがいかにも新鮮なイメージをあたえているし、うがって考えればメタ・フィクション系にもつながっていきそうだ。
マーロン・ブロンドの暗さ&烈しさと、マリア・シュナイダーのやるせなさ&はすっぱさが、見事に組み合わされている。
マリア・シュナイダーのからだの、なんとうつくしかったこと!
出会いが突然であったように、終局も突然で理不尽であることが、当時の思想の最先端を位置していたことをうかがわせる。
タイトルのとおり、パリでのタンゴの舞われるシーンの、格調たかく、かつ優雅さ。
そのなかでのふたりの気ままさ。
運命へ、終局へとひかれていくふたり。
先日のフランス映画、L'Homme de sa vieでも、たくみにタンゴシーンが用いられていて、一瞬、うっとりとしてしまった(不覚にも?)。
マリア・シュナイダーは、コンスタントには映画出演はしているが、それほどぱっとはしていないような。
この次回作「さすらいのふたり」という作品にはいたく感激させられた。ボードレールのある散文詩を彷彿させるような内容だったから。
(2008/04/01)