邦画『ゆきゆきて、神軍』(1987)
まずこの作品については、いくつか関連書が出されているが、わたしにとって影響をあたえたのは、猪瀬直樹、山口昌男『ミカドと世紀末』という本。
その第七章が「『ゆきゆきて、神軍』の提起したもの」とタイトルされていて、映画での一部会話収録も含めて四十頁にわたっている。
映画は、まず圧倒的な奥崎の存在感がひかる。
そのめちゃめちゃぶりに、カタストロフィー効果もふくめ、すっきりした爽やかさが残るのはなぜか。
自分のやれないこと、やってはいけないとふだん、思っていることをなんの臆面もなくこなしてしまう奥崎の行動力に圧倒されてしまう。
旧陸軍にての、食糧難は聞きしに優るものがあったらしい。
戦死者といっても、じっさいは戦闘で亡くなるより飢餓で絶命するほうが多かったほどだという。
ひとはよく、ネズミを食べただの蛇を食べただの、口にはいるものならなんでも食べたという話をよくする。
しかし食人もかなりの程度、戦争末期になると、ふつうのことであったらしい。
猪瀬は平然と語っている。
「肉を喰った兵士は何万人もいるという話。いや何十万人かもしれない」
これにたいしてニホンジンの典型的逃げ口上は「いまさらそんなことを言ったって何になる」と「言えば当人たちが不幸になるだけだ」。
それ以上には決して踏み込まないというのが、ニホンの共同体の論理であり、にもかかわらず、一歩踏み込めるのが奥崎であった。
つまり奥崎は脱共同体論理で迫るのに、相手は共同体に埋没する。
すると、奥崎には力で向かっていくしかなくなる。
もうひとつ、奥崎ははじめから「思想家」ではなかったということ。
はじめの犯罪により服役中に、自分のこうむってきた苦しみを対象化し、立ち上がることができた。再教育、あるいは再転向、ともいうべきものか。
ゆえに天皇犯罪を意識しつつ、自分の身の回りで起きたことを問いただしていこうと決意をかためる。
奥崎の自己教育もまたユニークであり、従来のニホンのインテリにはけっして出来ないような戦いの態度なり軌跡をもつことができる。
ニホンを、テンノー制をいかに対象化するかというのは、凡庸なインテリにはとてもできないこと。
法をこしらえている国への信頼がないから、奥崎にとっては犯罪も何の意味をもたないし、どこまでもひとりで戦っていける。
いい意味でもわるい意味でも、ニホンジンを超えている。
一方で自分のイメージにもきわめて意識的である奥崎をとらえるカメラの真実とフィクション性とが混ぜ合わされた映像・言語表現も秀逸。
(2008/01/15)