邦画「象の背中」(2007)
帰りの飛行機のなかで見た。
幸せな家庭につつまれた働き盛りの男が、癌にて余命半年と告げられたとき、なにをするか。
延命を拒否し、残された時間を愉しみ、さらにいままで生きてきたなかでの総括も試みようと、ひとを訪ねて歩く。
生のひとときをこれほどまで思いつめながら生きるというのは容易ではない。
すべてにベストを尽くしてきた主人公は、恵まれた家庭および夫婦に包まれながらも、それでも外におんながいるという充実ぶり。
まず思い出されるのは、黒澤の『生きる』である。
『生きる』では、ほんとうにひとの役にたつことを考え、この映画では、自分の人生について内省する。
延命拒否し、与えられた時を精一杯生きて、あとに悔いを残さないというのは、じつは周囲の者にとってはいい迷惑なのかもしれない。
つまり自分にとっては悔いがないかもしれないが、周囲の者、家族にとっては後々まで悔いが残るものなのにちがいない。
その点で、この主人公はエゴイスティックであるともいえる。
ときれい事を並べてみても、いざ自分の身に降りかかってみたならば、生きる望みをすこしでも追って延命をはかるか、それともいさぎよさにこだわり、最後の燃焼だけに賭けるか、そのときになってみないといえそうもない。
さて、いうまでもなくこの作品はお涙頂戴モードである。
はじめからそのつもりだったから、いくらむさくるしくガサツなわたしでも、涙でずにはいられなかった(じつは、隣に座ってるおんなのこのシンパシーをかおう、なんて卑近な魂胆もあったのかもしれないが(笑))。
まあ、すくなくてもいわゆるカタルシス効果もあったかもしれない、あとで一時すっきりできたし。
とにかく、メメント・モリ、なんですね(えっ? 面と向かって、もりそば、たのむ?)
(2008/01/10)