インド・米国映画「The Namesake(「その名にちなんで)」(2006)

・”The Namesake", (”El buen nombre"、「その名にちなんで」)、Mira Nair(原作ジュンパ・ラヒリ)、2006、インド・米


越境の話。
 優秀なインド人の男が見合いのような形でインド人の女の人を引き連れて米国はNYに渡る。
 このインド人の男、電子系かで際立つわけだが、少年時にゴーゴリに惹かれる。たとえば外套。
 それでNYにて生まれた子どもをゴーゴリと名づける。
 この男の子、一生、自分の名に居心地の悪さを感じ続ける。
 インド人の読むゴーゴリか。

 いまではわざわざニュースにするまでもないが、インドというのは一部のひとたちの知的・技術的レベルが高いことで知られている。
 IC関係でも抜け出ている。
 英才教育も浸透している。
 それはインドというくにの全体からするといくらか(すごく?)異様なことでもあるかもしれないし、じっさい、インド人への従来のステレオタイプ的見方では、あまりポジティヴではなかったと思うのだが、そんなことを言っていると、時代から取り残されていく。

 親はインドのアイデンティティを護り続けるが、ゴーゴリと妹はそれを煙ったがる。
 家族でインドへ里帰りしても、手持ち無沙汰。
 越境組ファミリーにはよくあること。
 したがってゴーゴリくんは米国人化し、WASP系の恋人に没頭し、家族のアイデンティティから逃れる。

 そんななかで功成り名を遂げた父親の急死。
 米国人化から一転して(WASP系の恋人と破綻)、故郷ベンガル系の女の子と結婚。
 しかし、急激に盛り上がったこの仏文学専攻のインド人女性にフランス人の腐れ縁の恋人がいることがわかり、再び破綻。
 ちなみにこのふたつの破綻はただ背景として描かれるのではなく、ゴーゴルくんの生き方の投影、としても記されていて、ちょっとした文化論風。

 もう一方で、ひところ息子に相手にされていなかった母親は、夫が単身赴任のとき以来、ひとりで生きることを求められる。
 ただでさえ人のつながりが薄い米国社会。
 儀式やら行事では同国人系が急遽集まりはするものの、日常生活ではひとりきり。
 ノイローゼ気味にもなりながらどう乗り越えるかを、米国人女性と語り合いながら自分のモンダイとして引き受ける。
 そして未亡人になったのはわずか四十五歳とかだが、インドの伝統で再婚はできないし、ここにきて自分のルーツを深めることにいそしむ。

 ふたつの文化のあいだで生きること、そして、あくまでもひとりの人間として生きること、そのふたつを並行して描いていることが、この映画のすばらしいところだと思った。
 クレストブックのオリジナルストーリーもこんど新潮文庫に入ったようだから、こころして読まねば(というか、こころを躍らせて読まねば!)


                   (2007/09/23)