邦画「ウォーターボーイズ」(2001)

ウォーターボーイズ」、矢口史靖、日本、2001

 男子高校生が、ひょんなことから、シンクロナイズド・スイミングを仲間と演じる破目になり、その顛末をドタバタ調に、しかし青春ドラマ風にも描いたもの。TVドラマのノリで、もちろんあまりおもしろくはない。

 キワモノ風であった、男子によるこの水中舞踊が一気に注目を浴びだすきっかけというのが、TVでの半ば偶然な紹介によるというのは皮肉ではある。もちろん制作にTV会社も加わっているということもあるが。TVというメディアにのることが、マイナーからメジャーへの仕切り、というだれでもしってるからくり(でも、じつは根拠はあまりない)。

 なぜシンクロは女性のスポーツであり、男性には閉ざされてきたのか。フィギュア・スケートなら男子も女子もあるというのに。おなじ水泳でも飛び込みは視覚性が高いし。
 男のからだのそのむき出しの姿の美学性にあるのだろうか。
 しかし、男だってじぶんのむき出しの姿をアピールしてもいいはずだ。そのとおり、肉体美。モンダイがあるとすれば、ナルシシズムの介在の仕方だろうか。ミシマ・ユキオはなぜ男シンクロをしなかったのか?(ズッコケすぎ?)

 わがS県が舞台。いわずとしれた、男女別学の高校がいまでも多い。
 文化祭での男シンクロの実演、おそらくおなじ高校男子生徒が大半を占めるはず。
 ところが事情があって、急遽、舞台が女子高のプールへと変更される。
 すると、観客は大部分が女子高校生。泳ぎ手のほうも増え、声援が盛り上がり、見映えのある展開。

 しかしここで発生したのは、女性のための男性のエンターテーナー性という結果になる。男が女に集団で媚を売る、ということか。

 世界的に流行していることとは思うが、筋骨隆々とした、若い男性が女性観客のまえで踊るエンターテーナーがある。ここではチッペンデールとかいわれるが。
 それは、つまり女性のための男性のエンターテインメント、または男性の商品化ということ。
 その男性の踊り手の話を聞くと(記事で以前に見た)、女性観客はひどくずうずうしいらしい。踊り手をひとだとは思ってないような節もあるらしい。見せモノというか。

 この映画の結末はそこまでには至っていないことはじゅうぶん分かるし、逆にいえば、男が集団で女に媚をうって何がわるいのか。

 結論として出すようなものが、はっきりとは見えてはこない。おとこのからだとは、ありのままのからだとは、だれのためのものか。おとこは自分のからだをつかって、なにを表現すればいいのか。力強さだけを売り物にするのか。

 美術では、はるかな昔から、女性ヌード画と同様に、男性ヌード画というのも存在する。
 つまり男のヌードにも、まぎれもなく美というのは存在する。
 一歩、踏み込むとすれば、男のヌードの社会化のもつ意味とはなにか?

 いつものように、はっきろとした結論はなく、なにかを考えるひとつのきっかけであることを目指したい。負け惜しみかもしれないが。


              (2007/09/01)