オランダ映画「ブラックブック」(2006)
・「ブラックブック」、ポール・バーホーベン、2006、オランダその他
ドイツ・ナチ軍がヨーロッパ各国を侵犯していく。
しかし、どの国においてもレジスタンスが存在した。
ユダヤ人が、コミュニストが、あるいはナショナリストたち、かなり幅広い層が。
この映画では、オランダを舞台にし、元歌手の美貌のユダヤ人女性の運命の転変を扱っている。
この女性、飛びぬけて魅力に富み、ナチ側の情報将校に取り入り、スパイの役割を受け持ち、オランダでのレジスタンスにおおいに貢献する。
しかし、それだけなら、戦時を舞台にしたメロドラマであるだけ。
何年もまえに、メキシコ大学のシアターにサルトル原作の、レジスタンス側の暗部をえぐった芝居をフランスの劇団が演じたことがあり、たまたま見ることができた。
輝かしい栄誉に充ちているようにみえるレジスタンスであるが、じつはお互いにかなり疑心暗鬼に陥り、はてはちょっとした疑いで処刑に至ることが少なくなかった。寝返りやら二重スパイやらを案じていたのだ。
しかし、戦後においてもその件を扱うことはタブーに近かった。だから、作品名は忘れたけど、サルトルがその作品を発表したときも、批判が出たはず。
ナチは圧倒的な軍事力を誇った。
しかし、どこにおいてもレジスタンスに悩まされた、本国内においても。
ここで翻って、はたしてレジスタンスはどれだけの貢献を果たしたのだろうか。
結果として、ヨーロッパ各国は、米軍やらソ連軍によって解放された。レジスタンスはどれだけナチを苦しめ、解放を早めたのか。ナチを困らせた、というのは事実だろう。しかし、犠牲者をはじめ、喪われたものも多かった。はたしてレジスタンスは存在価値があるのだろうか。
それは、わたしたち、非ヨーロッパ人にはわからない問いかもしれない。
つまり、レジスタンスはたしかに貢献があったものの、レジスタンスをしたひとびとの生き方のモンダイであったのかもしれない。
自身の価値なり尊厳と、征服者への非服従、抵抗が同義語であったのではないか。
結果はどうあれ、レジスタンスをしなければ、自分を信じられなくなる、というところまで追い詰められていたのではないか。
しかしながら、わたしたちニホンジンは、先の大戦で、あまりにも「おかみ」に従順すぎた。
一枚板を強いられた。
せいぜいが、「どうせニホンの負けだよ」とぶつくさ言って、「憲兵さんに聞こえたらどうすんのよ」とたしなめられる程度だった。
それはヨーロッパのどこでも起こりえなかったことである。
それを噛みしめながらこの映画を見ると、圧倒される。
しかし、繰り返すが、レジスタンスの内部にもフクザツな事情があり、主人公の女性はそれに翻弄される。
まさしく、戦後半世紀をへてようやく制作された作品だといえる。
(2007/08/26)