フランス映画「Le tempe qui reste(「ぼくを葬(おく)る」)」(2005)

 ・Le tempe qui reste(「ぼくを葬(おく)る」)」, フランソア・オゾン、2005、フランス


告知されて何を想うか。
 取り乱すのが当たり前。泣きもする。
 それでも、ガンはよりポピュラーになりつつある。
 以前は「なんでこのおれが。。。?」と声につまるところ。
 しかし今では「とうとう来たか。。。」という具合か。

 告知された自分は、だれに打ち明けるか。
 そこでニンゲン関係が洗い出されてくるし、どう生きてきたかが突然、自身に問いただされる。
 それにまっすぐに向かい合えば、壮大な、あるいは、悲痛なドラマがおのずから成立してしまう。

 30台のパリのアーティスト。
 ゲイであり、いつかはエイズを病むかと思っていると、ガンの告知。
 しかし家族関係はどこかぎくしゃくしたまま。
 だれにも打ち明けない。
 ただ過去をもつ祖母にだけは告白する。
 この祖母とは、何を隠そう、ジャンヌ・モロー
 世界で唯一、こころを通わせられるひと。
 とにかく退行的な追憶に耽りながら、ゆっくり死を待つ。

 ひとつのエピソードとして扱ったほうがいいのか。
 たまたま、夫に生殖能力の欠けた女と知り合う。
 女はアーティストに子どもを授けてほしいと懇願する。

 その交わりの場には、夫も臨席する。
 いや、臨席どころの騒ぎではない。
 三人で愛撫しあい、ついには女は子を宿す。
 本来、女との交わりを避けるアーティストであったのに、自分が何か役に立つこと、自分の存在証明を遺すために、あえて受け入れたのだろうか。

 心は乾いたまま、ひっそりと、幼時の追憶を懐かしむように、生からひっそりと離れていく。

 それでも、だれと話し合えるか。
 相手の数はむしろ問題ではないのだろうか。
 あるいは観ているものも、やはり突き放されているのだろうか。


                   (2007/05/20)