ハンガリー映画「Fateless(Sorstalansag)」(2005)

 ・「Fateless(Sorstalansag)」, Lajos Koltai、ハンガリー、イギリス、ドイツ、(2005)

 ノーベル文学賞をうけたハンガリー人、イムレ・ケルーテスの作品の映画化。

 この作品は、いわゆるホロコースト文学へのアンチテーゼともいえるもの。
 フランクルも繰り返しているように、強制収容所では、絶望が支配し、それにもかかわらず生き抜くためには、なにか希望を持ち、主体的に暮らすことが必要。
 とはいうものの、いくらそんな態度を取ろうとも、その大部分は抹殺され、ごくごく一部のもののみが、奇跡的な生還を果たした。そんななかで希望を保つことにどれだけの意味があるのか。

 言い方をかえるならば、収容所という非人間的環境において、ナラティヴというものは可能なのか。
 収容所の体験は、証言としてではなく、語ることを選ばせてもらえるだろうか。
 もち語ることができるならば、語るべき、語ることができるひととはどのようなひとなのか。

 この作者、ハンガリー人は中学生くらいのときに、とつぜん、官憲に集団拉致される。
 官憲のなかに、作者を見て、周りにスキのあったときに「逃げろ」と知らせるようなひとがいた。でもまわりは同級生とか。作者は逃げるのではなく、仲間といっしょにこの運命を甘受しようとする。
 収容所の苛酷さは、あちこちで語られているように、それは怖ろしいもの。そこで作者は膝に傷害をもつ。
 ふつう知られているところでは、働けなくなった収容者はすぐさま処分される。しかし、この作者は介護を受ける。
 苦しい日々はもちろん、果てのないようにつづく。

 しかし解放の日が訪れる。米軍兵士に拾われた作者は、米国に渡って大学で勉強することを勧められる。しかし断る。
 故郷になんとか戻る。しかし家族関係、親族関係、ユダヤ人社会の具合もおかしくなっている。戦後はこのような被災者にもまた苛酷であったことだろう。

 ということで、従来の収容所のジョーシキがやや異なっているところもあるし、主人公の少年が、肝心なところでは、(結果的に)不利なほうへと選択している。
 もちろん、諸手をあげて、これを主体性の勝利だなどと言っていいわけはないし。

                  (2007/05/02)