ドイツ映画「DAS LEBEN DER ANDEREN(「善き人のためのソナタ」)」(2006)

 ・「DAS LEBEN DER ANDEREN(「善き人のためのソナタ」)」フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 、ドイツ(2006)


組織、体制のなかの個人、ありえるならば、個人の良心とはどんなものなのか。繰り返し語られてきた。
 組織のなかで個人が目覚めること、良心に目覚めることがあるのだろうか。疑問を隠せない。
 
 ドイツ軍将校はショパンを聴いて、自分のなにを取り戻すのか。
 ドイツ軍将校は、収容所にてドイツレクイエムを演奏させ、聴き、その結果、なにを得たのか。
 疑問を隠せない。
 それはたとえば、五木寛之でさえ知っている。

 いや、そうではないかもしれない。
 いかに思想教育されてみたところで、ひとのこころには弱さが潜んでおり、そこはいついかなるときにも崩れ落ちる可能性がありうる。
 ひとのこころ、その可変性を信じようじゃないか。
 そりゃあ、信じたいにきまってる。
 でも。。。

 それは古今東西に存在しえた。
 良心の叫び、その生命力はどこからでも噴出すにちがいない。
 かりに良心が束縛にとぼしい地点にありえたと仮定した場合のことであるが。

 こころの悶えから行為まで、どれだけの距離があるのだろうか。

 
 じつをいうと、もちろんはじめから色眼鏡で見たわけ。
 オスカーで本命候補だった、El laberinto de faunaよりも、ほんとにすばらしいのだろうか。
 結果はというと、El laberintoのほうがやっぱりイイな、と思った。

 この映画、ひとつのいいところ(だと思われるの)は、思想、信条を入れ替え、降格を覚悟する元公安幹部の男。ここにおいて、ニンゲンはやはり信頼に値するということらしい。
 上から墜ちるということ、その覚悟は相当なものである。
 しかし世の中には、一生、墜ちたままであり、それにもかかわらず、こころざしをずっと保ち続けているひとたちもいるわけ。だれにもしられず、ただ自分だけに忠実に生きているひとたちって意外と数が多いはず。そんなひとと比べたら、はあ、元公安の幹部が墜ちることぐらい。

 映画の最後のシーン。左遷され、カートを引っ張りながら郵便配達のようなものをみすぼらしくこなしている。
 昨日、わたしもおなじようなカートをマーケットから引っ張ってきながら、後ろからみればどっちも同じようだよなあ、なんて苦笑いしてた。あは、笑って過ごそうよ。。。


                 (2007/03/19)