韓国映画「春夏秋冬そして春」(2003)


春夏秋冬そして春」、キム・ギドク、2003年、韓国・ドイツ

人里はなれた山の奥の湖のまんなかにお堂があり、中年の僧と見習いの少年僧(おそらく六歳になったかならないか)が修行を勤める。歳のわりには際立った少年僧であるが、生きものに重しをつけて面白がる(他者を苦しめて喜ぶという罪)。中年僧は少年にも重しをつけて意味をさとらせる。
 社会に適応できない少女が送り込まれてくる。青年になりかかった僧と少女はやがて懇意になり、深みへとはまりこんでいく(肉の罪)。少女にうつつをぬかし、修行の意味までおろそかになる(怠惰の罪)。
 ついに見かねて中年僧は、少女も恢復したことだし、俗界に戻す。恋に狂う青年はあとを追い、逃げ出す。
 俗界にてだれかを娶った青年は、嫉妬ゆえに殺人を起こし(殺生の罪)、やがてお堂にこっそり戻ってくる。初老となった僧は床に般若心経だかを綴らせる。引き取りにきた刑事に同行する。
 すでに年老いた僧は、舟に薪を組んで即身成仏を試みる。しかし蛇となってお堂に住み続けるらしい。
 刑期が開けた青年はお堂に戻り、修行の身に戻る。そこに女が顔を隠したまま幼子をつれて訪れる。この女は溺死し、どうやらあのときの少女らしいことがわかる。おそらくこの女も俗界にて過ちをおかしたにちがいない。
 この幼子も幼い尼さんとなり、中年僧と修行の日々にはいる。蛇もお堂に残る。

 随所に、禅問答風の意味の問いかけがあふれているので、それに気をとられる。しかし、幕を閉じてみると、ユダヤキリスト教社会の時間やら倫理とはまるきり異なった世界が披露されている。すべては周り巡る。昨日は弟子だったものが師匠になる。
 ひとはすべからく、過ちをおかす。それをどう扱うか。叱責するだけではおさまらない、なぜならそれは自らの昨日の姿であるかもしれないからだ。
 このような話が、春夏秋冬春、といった自然の移り変わりに乗っ取って展開する。西洋の智ではなく、東洋の道の世界か。


                  (2007/02/13)