オーストラリア映画「Innocence(「もういちど」)」(2000年)
・「Innocence(「もういちど」)」、Paul Cox, 2000年、オーストラリア
「コレラの時代の愛」のオーストラリア版か?
クレアとアンドレアスは青年期に純愛につつまれていた。しかしアンドレアスの父親の機嫌によってか、離れ離れになってしまう。
偶然、アンドレアスはクレアの居場所をつきとめ、便りを出し、再会する。
しかし二人ともすでに七十歳に近い。
アンドレアスはすでに妻を亡くしている。
クレアは、夫ジョンと幸せに暮らしている。朝食がおわると夫がキッチンに皿を運び、洗う。クレアは、理想的な夫だと思っている。
アンドレアスも、クレア、夫もそれぞれのこどもたちにいろいろサポートされ、大事なことを話しあえる環境にある。
アンドレアスはクレアに想いを打ち明け、はじめは頑なな態度に出ていたクレアもふたたび昔の想いでのなかに埋もれていく。
その想いのあまり、ふたりは愛の交わりまでかわす。クレアは夫との営みが絶えてから久しい。
クレアは甦った愛を隠し通せない。いや、隠すつもりがなく、夫に打ち明ける。もちろん夫は寝耳に水、自分も理想的な夫であると自負してきていたから当然ではある。
ここまでくれば、クレアはさらにアンドレアスに傾いていく。あれほど完璧であった夫も、崩れだしていく。
これは悲劇だ。糾弾されなくてはならない、アンドレアスのわがままをこそ。
しかし、それにもかかわらず、純愛にまさる価値は地上には存在しないのも事実。
あるいは、あまりにも整った、平和な暮らしの、いかにもろいことか。または、クレアのことばのひとつに、夫があまりにも完璧すぎて自分が必要とされていないような気までする、というのがあり、ああ、ひととどう繋がることがいいのか、頭を抱え込んでしまいそうだ。
三人はそれぞれ苦しむ。
しかし、それでもアンドレアスとクレアは幸せだ。
人生で残されたものは少ない。
この少なさのなかでなぜ苦しまなくてはならないのか、夫は嘆く。
アンドレアスはアンドレアスで、病に蝕まれているらしい。
アンドレアスは音楽教師兼元教会のパイプオルガン奏者。
こっそり二人で忍び込んだ教会のオルガンの演奏にアンドレアスは我を忘れる。耳を傾けるクレアはかぎりなく昂揚する。そのあげく、倒れる。息を吹き返すことはなかった。
お葬式でふたりの男は顔を合わせる。
ひとりの女を愛したふたりの男。
敵なのか、仲間なのか。
クレアはだれの女なのか。
老いた身で悩む。
アンドレアスとジョン、ふたりきりで墓地のまわりを歩いているところでこの話はおわる。
(アンドレアスは、老いたディエゴ・リベラににたひと。ジョンはサミュエル・ベケットに似たひと)
(2007/02/11)