ハンガリー映画「Chico」(2001)

「Chico」Ibolya Fekete,ハンガリー・チリ・ドイツ・クロアチア(2001)

すごい、すごい、とにかくすごい、といっても、何にも伝わらないと思うから、ガマンして初めはあんまりスゴクない、なんていいながら始めることにする。

 Chikoという名の映画、TVでのクレジットはチリ映画となっていたけど、監督はハンガリー人、ハンガリー映画としてみなされることが多いみたい。

 ボリビア人の父親とハンガリー人の母親のあいだで一面ではブルジョアっぽく、また一面ではコミュニスト系としてムジュンを抱えながら育つが、小学生のころから政治意識に富む。

 ゲバラの暗殺等のトラブルでチリに家族して亡命。こんどはアジェンデ政権への軍事(米国)クーデターの渦中、命からがらハンガリーへと逃れる。
 そのあいだ、当時のチリ等の民衆の音楽(カント・ヌエボ系)がふんだんに流される。そういうの、昔、西武セゾンでやってたドキュメンタリー祭で観たな。

 ハンガリーに移り、パスポートはふたつ、外国語は堪能、軍事技術にも優れている、ということでスペイン系の記者やら諜報系の仕事に就く。
 しかしたえず、コンフリクトに巻き込まれる。

 たどりついたところはセルビア勢力と対峙するクロアチア軍事グループ。
 いまではかなり知られているように、残虐、苛酷な戦いの日々。憎しみが憎しみを倍化させていく。主人公はそこにて、生きる意味やら戦う意味についておおいに悩み、迷っていく。
 とにかくクロアチア人なら大なり小なり、そういうものと向き合って数年過ごしてきたということだろう。セルビア人の敵を倒したとき、たまたま敵の手帳を開けると、息子と写っている写真が出てくる。

 そういえばクストリッツアの「ライフ・イズ・ミラクル」も似通ったテーマだったのを思い出す。

 主人公のチコが、ときどきカメラに向かって話すというセミドキュメンタリータッチ。
 とくにニンゲンについて、ジンセイについての深い省察があるわけではないが、世界のなかで、見えないところでどういうことが起っているか、どういうつながり方があるのか、ということを考えさせられる。
 もしわたしが監督だったらより内省的、スローテンポの作品にしたと思うが、とにかくゆっくりとしたところがなく、強引に観ているものを巻き込み、引きずり込んでいくという印象。

 そういうジンセイが送りたいか、送りたくないか。
 おそらく、送ったことがあるひとはけっしてもういちどやりたいとは思わないだろう(ホントに?)。

 ネルーダやらマルティやらビクトル・ハラやら。。。とにかくあつ〜〜い映画。
 ニホン語ではこんなことが書かれてます。


http://diary.jp.aol.com/smrnkktn/14.html

http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=26020&pg=20030405



(2006/06/19)