米国映画「Transamerica(「トランスアメリカ」)」2005

「Transamerica(「トランスアメリカ」)」Duncan Tucker、米国、2005


 性の同一性障害の男の話。女に最終的に替るのが寸前。
 そんなとき、息子が。。。

 一種のロードムービー。それも米国の南部、西南部系で、イスパニック的、インディアン的雰囲気で充ちているのが、本来のテーマ以外の見所だとおもう。

 性的アイデンティティというのは、個人の内在的なものなのか、それとも社会的な関係性のなかではぐくまれてくるものなのか、そこのところがいまひとつよくわからない。あるいはかなりな程度、ケースバイケースによっているのかもしれないが。

 トランスアメリカを観る一週間前には、二ール・ジョーダンの「プルートで朝食を」を観た。ニホンでもほぼ同時にちかい形で公開されるので、そのアナロジーに気がつくひとが少なくないと思う。

 カポーティーの映画評にてある批評家(メキシコ人)が、いまヒットする映画作品はみっつの要素を抱えてると指摘してた。伝記性、社会批評性、そしてゲイ(ホモ)性、なんだという。
 これがひと昔まえのハリウッド映画ならば、成功の条件は、セックス、マネー、アドヴェンチャー、ということになっていたらしいから、かなりの様変わりといえそう。

 なぜいま、性的アイデンティティなんだろうか。いや、いままでもいくらでもくすぶってきていて、この今になって押し込まれていたものがわっと出てきたと思ったほうがいいのかもしれない。いわば社会の負の要素として、つねに存在してきたにちがいない。とりわけマッチョの諸国ではそのコンフリクトがあらわな形で浮き上がってくることが多かったと思うけど。

 「プルートで朝食を」では、アイルランドという地において、性的アイデンティティと国民的アイデンティティとのコンフリクトが焦点になっていた。べつに物理的に性変換を試みなくても、生きていけるし、社会の一部はそれなりに受け入れてくれる。
 トランスアメリカでは、物量の国だけあって、性転換が可能にされていて、より一層、性的アイデンティティへの執着が深いようにみえる。
 しかし、やがて家族内アイデンティティが前もってコンフリクトをはらんでいたことがわかってくる。裕福であったらしいから、そこには社会的アイデンティティは乏しかったと思われる。

 この作品の重要なテーマとして、息子と男親との関係がねじ込まれてくる。
 その性的アイデンティティをより浮き彫りにさせてくれるのが、エスニック・アイデンティティらしい。
 イスパニック世界が陰に陽に暗示され、(失われたか、失われつつある)アメリカインディアンのアイデンティティを目の当たりにされて、主人公は戸惑う。じっさいに戸惑う様子は描かれていなかったかもしれないが、戸惑ったはず。
 イージーライダーの時代からも、南部、南西部は異質な空間で、その周辺を横切ることで主人公のなかにやはりそれまでとは異質なものが芽生えてきていたにちがいない。


 一般的な傾向としては、近年、世界的に環境が変わってきているというのが実感させられる。
 韓国の例が出ていた。戸籍にも至るというのだから、実質的にはもう不備はありえないのだろうか。外から見ればそうである。しかし各ケースにて、内面的には何が起っているのか。極端なことをいえばケースの数だけ異なった事情がありうるのではないだろうか。

 今年のベルリン映画祭にて銀熊賞を得たデンマーク映画「En soap」も、「トランスアメリカ」に似通ったテーマが扱われています。女性への性転換を控えた男性の、インシデントを迎えての心の迷い、戸惑いがかなりインティメイトに描かれています。もちろん「トランスアメリカ」に似通った部分、異なる部分といったものがあるわけで、比較するとおもしろいです。


                   (2006/06/18)