メキシコ映画「Y tu mama tambien(「天国の口、終わりの楽園」)」(2001)



「Y tu mama tambien(「天国の口、終わりの楽園」)」、Alfonso Cuaron, メキシコ(2001)

 あのガーエルとディエゴの「天国の口、終りの楽園」をいまごろ見た。

 青春なんだな。オンナとセックスのことしか頭にない若者。セイシンとニクタイとは何ぞや、なんて呻いていたわたしなんかより、ずっとずっといさぎよい(ホントにそう思ってる)。ソフィスティケートされた青春なんてまっぴらだ、なんて懐古に耽ってしまう己が哀れか?

 シティにはシティなりにコンフリクトが溢れている。しかし一歩、外に出てみればゲレーロ州なりオアハカ州なり、モンダイが山積み。
 ちょっと眺めていればすぐ気がつきそうなものだが、この二人には見えてこないらしい。メキシコ的現実とは別個に生きる二人。たとえ高校生であろうが、立派にカツドウを志すものたちもいるというのに。
 そういう「偏った」青春、そしてただセックスへの(そしてドラッグへの)のめり込み。わたしから見るとかけ離れたものであっても、やはり共感を感じなければならないのがフシギ。

 期待して観たんだが、二三日してみると、それほどユニバーサルな話ではないな、と合点。
 これスペイン女の側から見るのも、イメージがくるりとひっくり返るようで、別の愉しみ方ができる。

(2006/05/09)

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 たとえば「Solo con tu pareja」(1991)のように、メキシコ現代映画史のなかでエポックメーキング的な作品を数え上げることができる。
 この作品もそのひとつのはずで、モラリスト的解釈は脇においておき、それまでのメキシコ映画のなかでの斬新さに着目してみるべき。

 天下にほこるUNAMの学生だといっても、それはぴんからきりまでで、自分の方向性を見出せずに自分の恵まれた環境に甘えて、ただ流されていくだけ、あるいは感覚的な生をむさぼるだけの場合もあるはず。

 さらにこの作品では、ふたりの男の子のつながり、それがいかなるものであろうが、ひとつの強固さを伴ったものとして描かれているはずで、すべてをひっくるめたうえでの、このふたりの関係を見つめなおしてみたいと思う。

 ガーエルとディエゴにとってももちろんであるが、それほど魅力にあふれていたようにはみえなかったマリベル・ベルデュの躍進ぶりには眼をみはるものがある。まあ、現在でもわたしの眼には大女優としては映らないのではあるが。

                    (2008/05/04)