フランス・イスラエル映画「Mur(壁)」2004年
・「Mur(壁)」、Simone Bitton, フランス・イスラエル、2004年
「ロサリオの鋏」かMURか、さいごまで迷った。ロサリオはどうせ海賊版でも見られるさ、とたかをくくって、チョッポまでMURを観にいく。
またしてもパレスチナである。
イスラエルはパレスチナとのあいだに高いコンクリの壁をずら〜〜と打ち並べる。理由はテロリストの侵入を抑えるため。
だが言うまでもなく、すべての土地はパレスチナ人のものであったために、自分の土地を分断化されたひとが少なくない。分断どころか事実上、包囲された恰好のひともいる。家と畑のあいだに壁を築かれてしまえばろくに農作業にも出られず、収穫もできずオリーブの実を腐らせてしまったというような例も出てくる。
すべては憎しみと不信の連鎖のなすものである。すでに何度も繰り返しているように、ヒューマニズムといったことばが何の意味もなさないような時と場所がありうる。
それでも何か蒔かなくてはならないのか。それでもまだ未来を信じなくてはならないのか。
そう、ことばだけが空回りしていく。
とりわけニホンジンのことばは、空回りしていくばかりだ。
すこし鼻につくようなら、わたしのことばが空回りしている、といいなおしてもいいわけだけど。
これ、別に対岸のことだけではない。米国もメキシコとの国境におなじような壁を打ちたてようと計画している。いま、米国のメキシコ人は怒ってデモをしているというのに。
ああ、セカイのヒミツに接近するのはエクスタシーをもたらす。けれどもあまりの自分の脆弱さに気がつくとき、立ち直るには時間がかかる。自分は有罪か無罪か。
参考: http://smacks.exblog.jp/m2004-11-01#1128232
http://smacks.exblog.jp/961200/
(2006/04/02)