フランス映画「BALZAC ET LA PETITE TAILLEUSE CHINOISE(小さな中国のお針子)」(2002)(

 「BALZAC ET LA PETITE TAILLEUSE CHINOISE(小さな中国のお針子)」、ダイ・シージエ、フランス、2002

 文化大革命の渦中での二人の若者の下放、それに田舎の女の子。
 このお針子さんは、二人によって、西洋文化に目を開かされる。

 お針子さんは、自由の彼方へと歩みさっていったのだろうか。
 そのお針子さんに喝采する評が多いみたいだけど、あるいは逆な見方もできるんじゃないかな、なあ〜んてまた天邪鬼なこと、考えてます。
 風光明媚な中国の奥地の無垢な若者が西洋文化に眼を開かされるというのは、もちろん中国に限ったことではなく、南洋の孤島だろうとアマゾンの奥地であろうと、世界各地で起こりえたこと。
 西洋の書籍文化はほんとうに偉大なのか。
 然り、としか言わなければならないのは事実だな。
 ヨーロッパの没落だ、何だ、なんて言われながら、西欧文明の達したものはそれこそ人類の遺産であった。
 かといって、中華文明が全否定されていいのかというと、これも疑問を持ち出す。
 しかしながら、文化大革命の渦中。中華文明は負い目をもたらされている。

 ここで思い出されるのが、カルーソー対原住民の太鼓のリズムが拮抗したフィッツカラルド、かな。まさにふたつの感覚文化のせめぎ合いがそこにあった。
 お針子ストーリーでは、モーツアルトが、バルザックが、人類文化の象徴のように捉えられている。それはそれで間違いではないのだろうけど、じゃあ、お針子は香港なりどのなりでシアワセに暮らせたのだろうか。
 本来ならば、中国と仏蘭西は世界有数の自文化中心史観の国であるだけに、もっと四つに組んでもよかったのに。
 お針子こそ、ボバリー夫人であり、ドンキホーテであり、恋仲の男の子たちをいとも容易く振り切ったという点でノラであったのではないか(ちょっと乱暴かな)、なんて思えてしまう。
 バルザックらはただ、純然たるユートピアをお針子に与えたのだ、ということに絞れば、話はまた変わってくると思うけど。


                     (2006/05/21)