パレスチナ映画「Pradise Now」(2005)

 
・「Paradise Now」、 Hany Abu-Assad、パレスチナ、2005

 今年のアカデミー賞の外国映画部門にノミネートされたが、例によってイスラエル系から、自爆テロを正当化するものだ、として除外するように要請があったという、いわく付きの作品。

 自爆テロを実行するパレスチナの二人の若者の最後の時間を追ったもの。ストーリー的には紆余曲折があって、すんなりいかない。そこでより鮮明にいわゆる自爆テロリストの内面が描かれるにいたる。いわゆる限界状況。
 なぜ自爆テロに身を捧げるまでに至ったか。自爆テロを決心してからの心の揺れといったものはいったいどんなものなのか。フランス心理小説のような襞の深さを見せてくれる。スリラー仕立てのようにもなっているが。

 現在の状況のなかで地獄を味合うより、心のなかでいますぐ天国を味合うため。それが自爆テロの存在理由だと言うとき、
だれがコトバを返すことができるだろうか。

 イスラエルのモダンな町並みのなかで、韓国企業のパブリシティが大写しにされ、組織が使う車にも韓国車が使われていた。それもメッセージだと受け取るべきなのかもしれない。

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 ことばでは何とでも言えるけど、ほんと、ことばと事実の間の隔たりは深いのだと思い知らされる日々。このわたし、いかにもあれこれ話しているけど、言ってることをどこまで意識しているか、自覚しているか、大いに疑問を抱いてしまうことが少なくありません。
 自爆テロにしてもしかり。背景にはおなじような大義名分があり、正当化されている。あるのは報復の応酬ばかり。
 つまりそこでは、話せば分るといった西欧議会主義の虚妄は否定され、おなじく宗教的人道主義なんてものも省みられない。
 そのような背景があるにしても、やはり一人ひとりのケースが独特の意味合いを持っているにちがいない。そこを読み取らなければいけない。でも、そうなんだ、世界には読み取らなければならないものがあまりにありすぎるんだ!
 。。。と昂ぶってしまいましたが(笑)。
 たとえば、恋人と弟をイスラエル軍に殺されて生きる希望を失い自爆テロを選んだパレスチナのインテリ女性のことを聞いたことがあります。


                   (2006/03/26)