ベルギー・仏・英映画「Ma vie en rose(ぼくのばら色の人生)」(1997年)

「Ma vie en rose(ぼくのばら色の人生)」Alain_Berliner、ベルギー・仏・英、1997年

いわゆる性同一性障害の話なのだけど、たかが子どものこと。なんで大人がこれほどまで騒ぎ立てる必要があるのか。
 ある程度、内容はわかっていた。もっとも驚いたことは、舞台が郊外の新興住宅地になっていたこと。つまり典型的な核家族社会。仲良く寄り集まっているようにみえるが、意外とブルネラビリティが高いらしい。これを偽善ととるか。それとも小ブルジョア道徳の限界と見るか。
 要するに郊外の核家族ファミリーコミュニティは、価値観の共有ということ以外には絆が結べないのだろうか、とまで勘ぐってしまう。
 これは子ども社会にも伝染し、男の子は迫害をうけ、ついには学校コミュニティーからも排除されるに至る。フランス社会には相対的にいってより寛容さがあると思っていたわたしなどは、ショックを受ける。
 そのプロセスにおいて家族の意味も問われてくるのだけど。

 つまりこれは性同一障害の子どもへの迫害がテーマだけど、もちろん、価値観を共有しないグループへの迫害、蔑視というところまで跳んでいける。移民コミュニティーをどう扱うか、というところまで。西欧式ヒューマニティーの限界、ということ。だからフランス社会の実情をご存知の方がいれば、この映画のストーリーにはまったく違和感がわかないのだろう。
 田舎での偏狭さというようなものは、カミーユ・クローデルロダンの関係のようなケースにも出てくるが、それからどれだけの進歩が達成されたのだろうか、とギモンに思ってしまう。

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民主主義が始まった文明とされるヨーロッパ、ところが実際はかなりの階級社会で、社会的固定性がかなり高いとか。イギリスではそれがよほど厳しいらしい。長いあいだ、物書きというのは貴族層に限定され、やっとローレンス、あるいはアラン・シリトーになって労働者階級から物書きが出てという次第。たしか丸谷才一の受け売りかな。

 ことほどさようにヨーロッパ内の階級モンダイが生き延びているのに、ここで移民モンダイが持ち出されたら、いったい社会階層地図というのはどうなってしまうのでしょうか。
 はたしてヨーロッパのヒューマニズムというのは、どこまで根を張っているものなのでしょうか。わたしにはわかりません。
 ただ差別化、差異化はどこまでも続きそうですね。メキシコだって、企業は成績など二の次で国立大学よりは私立大学の学生を取りたがるし、また、住んでいる地域もかなり左右するとかいう話。
 なんか暗くなってきました。
 まあ、こんなところでどこかの方がニコリと微笑んでくれると、瞬間的にバラ色のジンセイの香りが漂ってきそうですが、そういう刹那的なことを口にするようでは人民の敵かな(爆)。
 でもメキシコあたりでは、迫害どころか即ホモ殺しだものねえ。。。くわばら、くわばら、大根の畑(はあ?)


                 (2006/03/22)