メキシコ映画「El infierno」、Luis Estrada, 2010, メキシコ



メキシコでいま、なにが起きているのか。
 じつは当今騒がれているナルコの問題は氷山の一角である。

 ラテンアメリカのみならず世界で進みつつあるのは、地方(農村)の荒廃と、都市のスラム化である。
 メキシコの場合ならば、地方の荒廃とはじかに米国への出稼ぎを意味する。
 スラム化はすすみつづける、しかし米国という最低限の安全弁はありつづける(もちろん命の保証はないが)。

 しかし米国への出稼ぎという安全弁に支障が生じたらどんなことが起こるか。
 この作品の主人公ベニーは、米国から締め出され、はかなく故郷へ舞い戻るが、その途中、検問所では軍人にお金を盗られ、バスでも強盗に盗まれる、つまりいいカモにされるような具合の輩なのである。

 しかしこのベニーが、地元でたまたまナルコ関係にかかわり、みるみるうちに台頭していく。
 これはベニーがとりわけ要領がよかったなどという意味ではなく、どんなメキシコ人でも(どんな人間でも)その環境しだいでは、どんな人間にでもなれてしまう、環境によって目覚めてしまうのだ。
 ベニーはボス格にまで登りつめていく(さながら環境決定論)。

 さらには、ナルコと地方権力との癒着関係、あるいはただしくはナルコがいかに牛耳っているかなどが明らかにされる。
 お金さえ潤沢にあれば、だれでも恰好いい暮らしができるし、青少年も当然、憧れるし、とりわけ青少年にとって未来の展望がありえないならば、刹那的な快楽、立身出世にたよるしかない(ならば青少年に未来をあたえよ!)。

 そしてナルコもじつは安楽に暮しているわけではなく、不安と焦燥にかられ、生きた心地がしないことがすくなくない。

 残虐なシーンが多いが、それはこのくにの現実そのものである。
 わたしはこの作品を、ちょうど独立記念日に見たので、よりいっそう反メキシコ気分(笑)にかられた。
 しかも多くの殺戮シーンにみちたこの映画の数週間のちには、みずからが銃火器の脅威に直面したものだから、この作品はじつに忘れることのできないものとなったのである。


(2010/12/14)