メキシコ映画「Backyard. /El traspatios(「裏庭」)」(2008)




「Backyard./ El traspatios(「裏庭」)」Carlos Carrera, メキシコ(2008)

 米国との国境地帯にメキシコがマキラドラという呼称で関税優遇措置を講じたのはもうずいぶん昔のことになる、半世紀ちかい前になるのではないか。

 はじめは米国の企業が誘致され、しだいに米国のみならずニホンやら韓国の企業も集まりはじめた。

 謳い文句は、メキシコの労働人材は優れていて安価であるということで、マキラドラが増えるにしたがってメキシコ中から労働者が寄り付くようになるが、その結果としてお金がすべてであり、お金と欲望・誘惑とが地続きになっていく。

 はずかしながらこのわたしは、マキラドラについての調査のアルバイトをずっとむかしにこなしたことがあり、わりとそのへんの事情に通じているつもりではあるが、スペイン語資料をニホン語にまとめるということで、あまり感心できるものではなかったが、それはたぶんマキラドラへの投資対象調査ではなかったかと思い、やや良心の呵責を減じている。

 さて、そのマキラドラのひとつのメッカであるフアレス市、そこでのおんな殺しは有名であり、その数百人という犠牲者の数のみならず、それが長年にわたっていること、つまりろくに有効な手がうたれていないということがショッキングである。

 さて、このフアレス市ではおんなたちが殺されていく。
 その大部分はマキラドレスの女工が多いといわれ、その女工たちになにが起きているのか、これほどまでにおんな殺しが騒がれていながら、女工たちはなにを考え、なにをもとめて生きているのか、そんなことが制作者たちの調査によって明らかにされている。

 つまり単調な工場作業を補うべく、貨幣経済にしっくり組み込まれたかのじょたちは、誘惑に身をまかせ、欲望に肥大化されていく。

 そんなかのじょたちを虎視眈々とねらっている連中もいる。
 なぜ連中はかのじょたちを標的にするのか。
 いくつかの仮説はたてられるが、決定的な断定は打ち立てられずにいたずらに年月をかさねているのみである。

 しかしながら連中はなぜ、我が物顔にふるまうのか。
 それは組織的犯罪であり、しかも政治が無関心をよそおうどころか、意識的に隠蔽、あるいは積極的にかかわっているという、構造的犯罪という現象をかもしだしているからでる。

 じじつ、地理的に麻薬シンジケートの巣窟といった地帯でもあり、それ自体政治とのかかわりが取りざたされているが、金脈、人脈等、政治、地方政治の権力が密接にこのおんな殺しにからまっており、それだからこそ今のメキシコでこのような映画を撮ること、あるいは公開することにはおおきな干渉を想定しなくてはならない。

 この作品、わたしはずっと見られずにいて、11チャンネルのクリスチナ・パチェコの対談番組で監督のカルロス・カレラと脚本家のサビーナ・ベルマンが熱く語り、事前に映画を見ていたパチェコもいつになく昂揚していたものだった。

 フアレス市のおんな殺しについては、いままでにいくつかドキュメンタリー映画もつくられているが、このきわめてリアリスティックなフィクション映画は圧倒的。
 ジェニファー・ロペスの類似の映画は見られずにいるが、今回のこれほどちからのこもった作品は、メキシコのアクチュアリティ、その構図を描くという意味でも、必見の価値ありといえそうである。
 

(2009/04/15)