メキシコ映画『青い瞼(Parpados azules)』(2007)

・「青い瞼(Parpados azules)」、エンリケ・コントレラス、2007、メキシコ

この作品は、第20回東京映画祭でも上映されている。

 マリーナは30代半ばといったところか。
 各種業務用のユニフォームの老舗に勤める店員。
 仕事がら出会いはすくなく、べつに不満もなく、おなじような毎日を繰り返している。
 ビクトルも保険会社の雑用に近い暮らしをこなしながら、なんとなく日々をすごす。
 このふたり、もちろん自立していて、いちおう、なんの不自由もなくそのままずっと暮らしていくにちがいないようにみえる。
 陽気でお祭り好きだとかいわれるメキシコ人ではあるが、都会の片隅にはこうしてひっそりとすごすひとたちがいる。
 しかもどこにも悲壮感などといったものはない。

 マリーナは仕事先にてアカプルコ旅行の賞品を得るが、もともとペア用に仕組まれている。
 ひとはおとことおんなとのペアでひとつのユニットになるものだろうか。
 そう考えられてきた時代もあったが、いまでは古めかしい考えともみなされる。
 しかしメキシコではやはり公私両面にわたり、ペアというユニットは有効である(一方でゲイ文化なども進出しているが)。

 マリーナは同伴してくれる相手に困る。
 まずは姉を考える。
 姉は、既婚であるが、パートナーとトラブルを抱えているらしく、パートナーとのアカプルコ旅行を考えるが、もともと不可能で、それゆえに、マリーナを拒絶する。
 以前から家族関係において問題が潜んでいたことが暗示される。
 一方で、既婚の姉は、独身のままのマリーナに対して、軽視するような雰囲気をただよわせる。
 マリーナは、ペアのいない暮らしにたいしていままでになく、コンプレックスを抱くことになる。

 けっきょく、半ば偶然に中学の同級生だというビクトルと知り合い、渡りに船とばかりに、はじめこそためらいがあったが、マリーナはビクトルを信頼しはじめる。
 しかしながら、おたがいにシングルのままで暮らしてきたのだから、ペアへの思いやりやら気づかいがたくみであるはずがない。
 ぎこちなさにくわえ不器用さが目立つ。
 とはいっても、お互いに性的欲望ないし願望はあるわけ。
 とくにはじめての交わりの際のぎこちなさにみちた儀式めいた展開は、失笑にあたいする。
 それにもかかわらず、なんでも笑い飛ばすメキシコ人観客に笑いがもれなかったのは、二人のそれなりの真摯さに打たれたものか。

 やはり屈折はさけられない。
 マリーナはひとりで旅立つ。
 腹はたてたものの、ビクトルは考え直し、マリーナに賭けてみようと思う。
 このあたり、映画というのは教育的効果もあるはずで、従来の単純なマッチョ・メキシコ人は苛立つだけだろうが、ビクトルは機会を大事にする。
 あたらしいおとこのイメージがうまれるところであろうか。
 はては、困難さもじゅうぶんに予想されるものの、ふたりはいっしょく暮らしていくことを約束する。

 後味はどうだろうか。
 いまでは、よほど頭のお硬いひとでなければ、シングル暮らしの意味というのは理解できるはず。
 ふたりでひとつ、というのは誰にとっても有効なわけではない。
 その点でどこまで新しさがこの映画にこめられているのか。
 一方で、メキシコというはちゃめちゃで、楽天的だと思われている世界のなかでの、また別のイメージをつむぎだしたという点では意味があるかもしれない。
 見ようによっては、退屈な作品でもあり、この種の退屈さというのは、メキシコ映画のなかでもこの映画がはじめてではない。
 しかし、この退屈さというのも、メキシコ的現実として受け入れるべきものである。

 この主演男優は、「ダックシーズン」にてピザ配達人をしていた男だという。
 気がつかなかった。


(2008/02/03)