フランス映画「パリ、ジュテーム」(2006)

・「Paris, je t'aime(「パリ、ジュテーム」)」, 2006, フランス等


パリは恋と愛の街ということになっている。
 しかしながら、わたしは書籍と映画でしか知らないが、それほど単純なものではないはず。あらゆる要素がうごめいているし、それにいわゆるパリジャンヌという階層は、他者に対して閉じているというイメージをわたしは持ってしまっている。パリに憧れるニホンジンは相当の数にのぼると思うが、パリの暮らしにまともに入っていくのは難儀なんじゃないかな。
 その点、メキシコなんてストレンジャーに対して相対的に開かれているから、暮らしていくのは容易にみえる。

 それでオムニバス映画、つまり世界有数の監督の短篇の競作。それだけでも大事業であったと思う。しかし当の監督たちにとっては、どこまでホンキにやれた仕事だろうかとも思ってしまう(それはプロ意識を十全に知り抜いていないわたしの浅はかな考えだろうか)。

 ニホンジンの監督は、この短篇を撮るのに二日かけたと言った。まあ、それでいいのかもしれない。(ちなみに、いつか、荻野アンナが、コンビニのCMを撮るのに丸一日がかりだったとか言ってたことがあったな)

 とにかく、パリをモザイク的に捉えるということで、その多様性への気配りはいちおう認められると思う。一篇の詩だと思ってしまえばいいのだろうけど、なんかやっぱりオムニバスによくあるように、物足りなさを感じてしまう。撮る側がたとえばより奥のある世界を意識していたとしても、観る側に伝わらないことがありそうだ。
 でも、観てる側に、おらだったら、もうひとつこんなのも付け加えてみたいな、という気を起こさせるだけで成功だったと思えばいいのだろうか。

 話がいっぱい出てくるので、混乱気味になる。でも、あとで作品のHPを覗いてみたら、懇切丁寧に各パートの説明があったので、ああ、そうだったのか、と分かり、精神衛生的に悪効果はなかったナ。

 映画自体の価値はさておき、いろいろ思い巡らせてくれる作品ではあるかもしれない。


もしパリがほんとに恋と愛の街であるとすると、それは、出会いの街というふうに置き換えてみてもいいことではないかと思います。
 つまり、パリは近代のなかではもっともはじめに都市として成立ったところで、それの意味するところは、いろいろなところから出てくるひとがいるわけで、そういう意味で一目ぼれということがもっとも存在しえたところではないかと。
 他の都市では、構成員がわりと固定されてて、おたがいに知り合い、顔なじみであることが多かったようです。
 ということで、パリでは一目ぼれから、恋心というのが、なにかと意識されたということじゃないのかなあ。。。さあ、どうでしょうか?


                 (2007/06/10)